ー世界へのDOORー

アメリカ留学経験済みの筆者が英語や留学、海外の文化等を紹介したり、自分自身が興味あるものをひたすら記すブログです。

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 [頸髄損傷闘病記⑧] 私の今までの人生。「生きる」ってなんだろう

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皆さん、こんにちは、こんばんは!Rinです☺️✨

今回は私の個人的な記事になります。タイトルは[頸髄損傷闘病記] となっていますが、私がこの症状になるまで、これまでの人生、どういった生き方をしてきたか、改めて振り返ってみようと思い、今回記事にしようと思いました。

 

実は私は、小学校高学年の時にクラスメートの子からいじめられてその時から精神的な疾患を負って10代の頃もあまりいい思い出がなく、「自分は何で生きているのか」家にも学校にも居場所がなくよく思い詰めていました。

 

パニック障害には10代の頃からなっているのですが、私がちょうど頸髄損傷になる前の1年前の2020年3月電車の中で発作で倒れ、また、パニック発作や精神的な疾患(長らく抱えている不眠症など)が表面的に出てくるようになりました。

 

その時には、すでに、「世界へのDOOR」を書き始めていて、読者の皆さんに対して一時的に書くことを止めるといったお知らせもした時もありました。↓

 

www.rin-world.com

 

記事を一時的に停止するのは、個人的に不安な面もあったのですが、読者の方がとても優しく受け入れてくれたので、その時は本当に助かりました。また、こうして今になっても続けて居られているのは読んでくれている奥さんの方々や、Twitterのツイートなどで励ましてくれている皆さんのおかげだと思っています。



今回は少し重い記事になってしまいますが、自分の半生を振り返ってみて、自分がこれからどう生きていこうか再認識するためにも、また読者の方にも私がどういった生き方をこれまでしてきたか知ってもらうためにも、大雑把ですが、自分の反省を記事にしてみたいと思います。

 

最後まで読んでいただけたらとても嬉しいです🙇‍♀️✨✨

 

[頸髄損傷闘病記⑧] 私の今までの人生。「生きる」ってなんだろう

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つい先日、2020年3月に更新したプライベート用のSNSで書いた記事を振り返っていました。

その時には、パニック発作で電車で倒れてしまって、ブログも書けなくなる位手が震えてしまって、一時的にお休みをいただかなきゃいけなくなる位精神的に参ってしまっていました。


また詳細は言えないのですが、その時には家庭(両親との関係)とうまくいっておらず、そういった理由からも精神的に参ってしまった要因なのかもしれないと思っています。


今回は、私がプライベート用のSNSで公開した記事を少し編集して皆さんにお届けできたらと思います。結構長いのですが、最後まで読んでいただけたらありがたいですし、私自身のことを知っていただけたらとても助かります。


ここから始まります↓


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2020年3月xx 日

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つい先日、恥ずかしながら電車で過呼吸になって意識を失ってしまいました。

周りの人はそんな私を助けてくれたみたいで、目が覚めたら駅の休憩室

(急に体調が悪くなった人のためにいくつかベッドが並んでいる場所)にいて、係員の人に「大丈夫ですか?」と言われお水をもらいました。


もしやと思い、、、不安になりながら後日病院に行ってそのことを話したら、パニック障害の再発と言われ、小さい頃のことがそこから一気にパッとフラッシュバックしました。

 

 


小学生高学年から、場面緘黙症、パニック障害、になって通学する時に電車で息が上手く出来なくて、嫌なことを言われてからかわれたりしても、ただただ言い返すことが出来ずに、声を出すことが出来なくて、ただ黙ってその場をやり過ごすことしか出来なかった。


精神的に参っていたせいか、その時は顔がヒキつくようなチック症状にもなっていたので、クラスメイトの子に自分の真似をされたり笑われたり…。


小学校の近くの駅に行くと喉がキュッとしまったような感じがして、声を一言も発することが出来ず、ただ教室に行きたくなくて…駅のホームの端っこの椅子に座って、黒いランドセルを背負いながら泣いていた。

 

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小4から行っていた中学受験塾も、色々なことが重なって夜まで勉強することさえ耐えられず嫌になった。


ある朝我慢の限界が来て、

母親に

「学校行きたくないんだ」


と勇気を振り絞って言ったら


「何を言ってるの!」

と怒られ、


抵抗したらドンッと押され、玄関の郵便物の受け口の所に右膝をぶつけ、血が出てしまった。

泣いて「行きたくない!」とせがんでも、外に出され鍵をかけられ、家に入ることができず、泣きじゃくりながら、右膝から血を流しながらランドセルを背負って、歩いて、40分過ぎかかる祖母の家まで行き助けを求めた。


自分が考える限り、その時に行ける場所は祖母の家しかなかったのだ。


祖母の家に着いた時、そんな私を見て察してくれたのか、優しくお菓子を出してくれた。

今日は学校行かなくてもいいよ。無理しなくていいよ」と言われ、涙が出た。


そんな日々を過ごし不安定ながらもただ同じ中学に進学したくなくて、体調崩して精神的にボロボロなのにも関わらず、中学受験に挑んだ。

試験を受けた時点で、

「落ちた確率の方が高いかも」

と思いながらも、直接試験結果を見たら、そこには自分の番号がなかった。


小学校の卒業式が終わり、公立の中学に上がる前、

改めて母親に

「クラスに行くと、声が出なくなって、息苦しさと動悸がしてたんだ」

「通学の時も電車に乗るのが怖かったんだ」

と必死の思いで打ち明けた。


中学に入学する前に、自分が抱えている問題を解決したかったから言ったのにも関わらず、ちょうど朝のワイドショーである高校生が不登校になって悩みを打ち明けている特集が流れていて、母親はアイロンをかけながら私に言った。


「この子の方があなたより辛い思いをしてるのよ。中学に入ったらきっと変わるよ、大丈夫大丈夫」と言われた。

 

母にとっては大したことない事だったかもしれないけどショックでこの事は今でも恥ずかしいけど、夢に出てくる。

 

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不安を抱えながら、全く誰も知らない公立の中学に入り、不安だらけだったけど…ふと小学校の時に発せなかった声は取り戻すことが出来て、その時は嬉しかった。

知らない人達ばかりだったけど逆にそれが良かったのか、小学校の時よりは少し楽な気持ちで行けるようになった。

周りの子も優しかったし、少しずつ自分を取り戻せるような気がした。


でも結局根本的なパニック障害が治癒できていなかったから、中2の時は行くことが出来ず、両親からも責められ、耐えられなくて自殺未遂。


この時両親とは本当に仲が悪くなり、何回も家出し、友達のとこに夜泣きながら「泊まらせてくれないかな?」と助けを求めたら、その子は優しく迎えてくれたけども、

両親が突き止めてきて車で家に連れもどされてしまった。


居場所がとにかくなくて、夜中マックで過ごしたり、小学校のようにまた祖母の家に夜中会いに行ったら、

「もうお母さんと暮らさなくていいよ。おばあちゃんの所で一緒に暮らそう」と優しく言ってくれた。

 

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ちょうど祖母と祖父も借金問題を抱えて自己破産して、小学校の時行った家は売り払われ、小さなアパートだったけどそれでも居場所があることがただ嬉しかった。

祖母もそういった問題を抱えていたのにも関わらず、受け入れてくれた事が嬉しかった。


翌日、祖母と暮らすため一緒にダイエーに買い物に行った。

金銭的にも色々あったのにも関わらず、私用のパジャマや歯磨きを買ってくれて帰りにファミレスでパフェを食べた。

結局結末は母親が来て家に連れもどされてしまうけれども、、、。


ただ、助けてくれたのは祖母祖父だけではなく、中学の先生も話を一生懸命聞いてくれて嬉しかった。

忙しいのにも関わらず、家まで来て色々小学校の時に抱えていた悩みまで真摯に受け止めて聞いてくれた。


先生だけでなく、周りの友達やクラスメートの子も優しくしてくれて涙が出た。この時の涙は悲しい涙ではなく嬉しい涙。


中3の時は心から話せる友達が出来て本当に楽しかった。

気にかけてくれる優しい同級生もいて嬉しかった。

話す大半がくだらないたわいもない話だけど、ただその瞬間が楽しかった。先生にも恵まれ、苦しいことも楽しいことも色々あったなと泣きながら卒業した。


高校に上がり、父親の毎晩の食卓の口癖は


「東大に行ったら成功する」と言われた。

耳にタコができるほど。


父親は確かに優秀な大学に行き、某自動車会社に勤め、その後退社し努力して弁理士になった人だから…。


そういった積み重ねてきた努力は父親として尊敬していたけれど、そんなことを毎日言われ、東大に行けるほどの実力を伴っていなかった私は、そういった食卓は決して楽しいものではなかった。

 

母親も弟にばかり話して、私の日々のことや友達のことに興味がなかった。

今でもそうだけど、驚いたのは私の母親は私の小学校から留学先の子の友達の名前まで知らなかったことを最近知った。


高校の時も、年頃だから好きな人のこととか母親に相談してたわいもない話をしたかったけれど、話せず…。

私はただ、母親と楽しくTVでも観ながら普通に話がしたかった


とにかく両親に認めてもらいたくて、必死に勉強して、高一の中間テストで学年2位(1位じゃないのがなんとも言えないけど😅)を取ったときがあった。


凄い嬉しくて、帰宅した時に食卓で「実はね!」と言って紙を見せたけど、言われた言葉が、


「通ってる高校が偏差値高かったらまだしも」


と言われスルーされた。


その時話すべきではなかったと後悔した。


そこから反発心、一番近い存在にも関わらず、16の私はただそのことを受け止めてくれなかったことが辛くて、部屋で小学生の時みたいに泣いた。

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クイーンとビートルズは小学校の時から好きだったけど、そこからとにかくニルヴァーナ、ローリングストーンズ、ドアーズ、ツェッペリン、ジミヘン、ジャニス・ジョプリン辺りを家では家族の声を聞きたくなくて、シャットダウンしてひたすらリピートして聞いて

その頃27クラブの存在を知り、27歳になったら彼らのようにこの世からいなくなろうと本気で思ってた。

今考えると浅はかな考えで、中学生が考えるような恥ずかしい考えで、

「何てこと考えていたんだろう😱」と思いだすと恥ずかしいけど、今自分がふと27歳ということを書いていて思った。

 

そんな両親にひたすら反発してた10代後半も、唯一ありのままを認めてくれたのが、祖母だった。

 


先程スルーされた成績表も会った時に見せたら、

「頑張ったんだね!おめでとう!おじいちゃんにも見せなきゃね!」

と言ってわざわざコピーして祖父にまで見せてくれた。


祖父も電話でわざわざおめでとう!と言ってくれて嬉しかった


とにかく両親の言っていることと違うことをしたくて、洋楽が好きだったから、

「ただ単純に英語を学びたい」

「そしてもっと違う世界を見てみたい」

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と思い留学したいと思うようになった。


両親は反対したけど、とにかくフリーターになってかけもちでそのためにお金を貯めつづけた。

全額貯めたと格好良く言いたいけど現実は甘くなく…結局両親がそこまで言うならと多くのお金を出してくれた。


その時初めて、両親に対して感謝の気持ちが芽生えてきた。


留学は多くの人は社会人の人がコツコツお金貯めて自力で行くものだけど、大して頭の良くない私にお金を費やしてくれたことは、感謝としか言いようがない、と思っています。

 


ただその間悲しかったのは

小さい時から支えてくれて大好きだった祖母が乳がん、小林麻央さんと同じくステージ4の段階から始まり最終的に亡くなり、

祖父はそれを追うかのように肺がんでなくなりました。


祖父はタバコを吸っていたけど、途中で健康のためにと吸うのをピタリと止めて

「お婆ちゃんの分まで生きなきゃな」とニコッと優しい笑顔で私に言ったのが最後に見た祖父の姿だった。


祖母のお葬式には行けたけど、留学中母に電話したら、祖父の病院にいたみたいで危篤の状態に電話してしまった。

母は私に心配させないように「大丈夫だよ」と言っていたが、その奥からゼーハーゼーハーと祖父の呼吸の音が聞こえてきて耐えられなくて電話を切ってしまった。


母が言っていたのは最後、祖父は息をするのも見るからに苦しい状態で「死なせてくれ!」と言ったらしい。


10代の頃は両親を恨んでばかりで、気付くのが遅いかもしれないけど、両親は自分のためを思ってこれが最後だよというつもりで自分だけでは稼げない多くの金額を与えてくれた


結局、私も不器用でなかなか今でも両親とコミュニケーションを上手く取ることはできないけれど、与えてくれたものは恩返ししなくてはいけないなと思っています。


10代の心に思って抱えていたダークな場面ばかり書いてしまい、こんな暗いこと今更書いてもどうかなと思ったし

最終的に何を書きたいのかわからなくなったけど、


今、パニック障害が再発し、精神的な症状も悪化してきて、それと向き合っていかなきゃいけないと思いました。


多分最近色々考えていたり、思い詰めすぎてしまったこともあって、自分にプレッシャーを徐々に与えてしまってたのかなと思いました


最近電車で意識を失ってから、電車に乗るのが小さい頃と同じく怖くなり、色々フラッシュバックが起こり辛い時もあるけど、また昔みたいに治ると信じて日々治療していけたらと思っています😅💦


といっても、先生に尋ねたら病院のベッドがいっぱいで空いてないそうなので、しばらく空くのを待ってといった感じです。


死ぬか死なないかのガンと病院で毎日必死に戦っている方もいるので、その方達と比べたら、


辛くても苦しくても息が出来ない発作や動悸が起きても死ぬことはない!✨と思って自分と向き合って少しずつ克服していけたらと思います


冷や汗や上手く呼吸できない状態

嘔吐が続き

辛くて寝付けなくて

食事が喉に入らず手の震えが止まらず

耐えられなくて泣いたり落ち込むこともあります


でも、負けたらそこで終わりだと思うので、自分を見つめて、病と戦いたいと思います


できたら前向きな投稿をしたいですし、こういった自分の辛い状況や病といったものをさらけ出すことは、はっきり言って恥ずかしいけれど、今自分を見つめ直すためにも決心し、久しぶりに投稿しました😅💦


私の人生小さい時から思うと、山あり谷谷谷、山あり谷谷谷のような人生だけど、また少しの丘にのぼれたらいいな!といった感じであまり深刻に考えず治療していきます✨


暗い内容で、不快に思われた方いたら申し訳ないです💦


コロナウィルスなども流行っているので、皆さんもお体には気をつけてください!


長文、失礼しましたm(._.)m!


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これが2020年3月にプライベート用のSNSに投稿したものです。まさかこの1年後の2021年9月2日に、もっと重い症状、頸髄損傷になるなんて思っていませんでした。

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www.rin-world.com

 

思っていませんでしたし、辛いことがあったから、これより辛くなることなんて、この先起こらないとも思っていました。

でも、実際頸髄損傷になって、「そんなことなんてないんだ」と思わされました。

 

 

まとめ

 

もともと精神的な症状も患っていて、さらに、身体的な障がい者にもなってしまった自分ですが、毎日、自宅のベッドから


「生きるってどういう意味だろう?」

 

「こんなに動けなくなってしまった。自分は生きる価値があるのか?」

 

「なんで私だけがこんな苦しい思いをしなきゃいけないんだろう」

 

とそんな暗くて悲しいことばかり考えてしまいます。

多分1人の部屋でずっといるので考えなくてもいいことも考えてしまうからかもしれませんが…。


正直言って、毎日が躁鬱病みたいな感じで、気分の波が激しく、普通の状態に戻ったり、落ち込んだり泣いたり、体が思うように動けなくなってから余計に精神的に参ってるのかなと思います。


ですが、ただ1つ言えるのは自分はまだこの世に生かされているということです。

私も2回亡くなりかけているのですが、それでも無事に生き残れたと言うことは「何か意味があるのかもしれない」

「最後になくなるまでに、まだ自分がやるべき事は、社会に貢献できる事はあるのかもしれない」とも最近思っています。

 

毎日辛いこともたくさんありますが、看護師さんからもよく言われる

「生きていたら、必ず良いことが何かある!🌈」それを忘れないで、これからもブログやTwitterを続けながら、皆さんと交流して過ごして行けたらいいなと思っています。


今までたくさんの涙を流してきましたが、それ以上にこれからは笑顔の人生を送りたい!となるべく思っています。もちろん、落ち込む時や泣きたい時もあると思います。

でも私たちは人間なので、そういった時はひたすら落ち込めばいいし、泣けばいいと思っています。

 


そこからまた立ち直って少しずつ一歩一歩進んでいけば、自分自身としても成長できるのかなあと今までの過去を振り返って少しずつですが、そう思えるようになりました。


いつもブログを読んでいただいている読者の皆さん、Twitterでツイートを通してやりとりしていただいている皆さんには、本当に感謝の気持ちでいっぱいです🥲✨✨


皆さんも毎日が笑顔の日々で過ごせることを祈っています🙇‍♀️🌈✨


長文になってしまったので、そろそろここら辺で終りにしますね!読んでいただきありがとうございました☺️✨💡


Rin

 

 

 

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