ー世界へのDOORー

アメリカ留学経験済みの筆者が英語や留学、海外の文化等を紹介したり、自分自身が興味あるものをひたすら記すブログです。

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 [頸髄損傷闘病記② ] ICUから脳神経内科の病棟へ朝から夜までオンパレード?

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皆さんこんにちはこんばんは!Rinです☺️✨


私のブログを読んでいただいている方は既にご存知かと思いますが、
昨年の9月に頸髄を痛めて、頸髄損傷という症状になってしまい、今に至ります





頸髄損傷になって、入院して本当に色々なことがありました
実際に自分の身に起こった出来事や、感じたこと、入院していて思ったことやどんなリハビリを受けたかを、自分の記録としても、そして皆さんにもお伝えできればと思い、この記事を書いています
今回の記事は頸髄損傷闘病記②になります!💦✨

まだこちらの記事を読んでいない方はこちらを最初に読んでいただいきたいです🙇‍♀️✨



www.rin-world.com



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[頸髄損傷闘病記② ] ICUから脳神経内科の病棟へ朝から夜までオンパレード?



私は救急搬送されて、緊急対処されてICUにいたのですが、体の調子をお医者さんや看護師さんに見てもらい、ICUから病棟へ行けると言うことで、脳神経内科の病棟へ移ることになりました

もちろん移動する時は全身が動かないので、ストレッチャーで看護師さんに連れて行ってもらいました
最初に連れて行ってもらった部屋は2人部屋で、隣の患者さんは30代後半位の若いちょっとヤンキーぽいママさんでした笑😅💦✨


ICUから普通の病棟に移ったものの、私にはとにかく色々な問題がありました



それは腕や体全身が動かないので、ナースコールを押せないということです
普通のナースコールのボタンは押すタイプのものなのですが、私はそれを押すことができないので、看護師さんや精神科の先生などとお話をして、どういったナースコールのボタンが今使いやすいかとかを検討したりしました


最初は普通のナースコールボタンよりも押せる範囲が大きいナースコールを持ってきてもらってそれを使って、私の肘の下に置いて、肘で押してみてと看護師さんに言われたので、最初の2週間ぐらいはそのナースコールボタンを使って押すようにしていました
ですが、何度も言いますが、、、その時、私はほんとに全然動けなかったんです😰😰💦
体も全身がビリビリしているし、両足は完全に動かず、両腕も動かそうとしても腕がプルプルして、自分1人では何もできない状態でした


ある時、たまたま肘で押すナースコールのボタンがずれてしまって、なかなか押せなくて、何度も何度も挑戦してみたもののなかなかナースコールボタンを押すことができない状態がありました💦

声は出せるから、看護師さんに声を出して助けてもらおうと思い、
「すいません!ナースコールが押せないのですが!」と大声で言ったのですが、看護師さんはすごいバタバタしてて、私の声が通らなかったのか誰も来てくれませんでした。

それを聞いていたのか、隣の患者さんのママさんが、私の代わりにナースコールのボタンを押してくれました
そしたら看護師さんが来てくれて、ナースコールの事について押せなかったと説明しました
隣の患者さんのママさんにも「ありがとうございます😢💕」と対応して、
そしたら隣のママさんが、Rinちゃんが押せないようだったら、私が押すからね」と言ってくれました
私はその時嬉しくて、そのママさんに再度「ありがとうございます!助かります」と言いました



私は今まで、病院で入院生活をあまりしたことがなく、1番長かったのは口腔外科で、顎変形症の手術をするために1週間入院しただけです

入院した時も夜中は静かで、普通に消灯が9時だったので少し起きたりしていましたが、周りの方は眠っていたりとにかく静かで寝れる環境でした
なので、私の病棟のイメージはそういったものだったのですが、今回の脳神経内科の病棟に来てその考えを覆されました、、、

まず私の部屋はナースセンターの本当に近くで、とにかく朝から夜までナースコールのボタンが鳴り止む事はありませんでした💦💦

私は夜、神経過敏になって目と耳が特に敏感になってしまうのですが、お昼ナースコールが鳴っていてもしょうがないとも思えるのですが、夜、夜中中、ずっと色々な患者さんのナースコールのボタンが大きく、何度も何度も聞こえてきて、最初のうちは眠ることができませんでした

そしていろいろなことでパニックになっていて、入院していた最初の数日は自分が殺される夢、や誰かに押されてなくなりそうな夢、
また、私は集合体恐怖症なのですが、目がたくさん付いている怪物みたいなのが夜中天井に見えた時があって、それがとにかく恐怖でした😭😢💦
今思うとそれはせん妄状態になっていたのだと思います




そんな朝から夜中までひっきりなしにナースコールは鳴り続け、特に大変なのは、夜ご飯を食べ終わった後です

夜ご飯を食べ終わった後、入院している患者さんのおばあちゃんやおじいちゃんがひたすらナースコールを押したりして、それが、勝手に廊下に出てトイレに行こうとしちゃったりして、看護師さんが廊下ですごいバタバタして、患者さんを止めたり患者さんに注意したり患者さんに付き添ったり、、

とにかく私は全身麻痺になって体が動かないので廊下でのその場面は見えていないのですが、会話など聞きたくなくても聞こえてしまうので、こんなことが起きているんだろうなあ😱と私はただじーっと聞いていました😰💦

脳神経内科だからなのか、患者さんの多くはおばあさんやおじいさんが多く特に認知症の方が多かったのかもしれないです
「何かあったらナースコールのボタンを押すんだよ」と20回30回看護師さんに言われても、勝手に外に出て行っちゃったり、夜中に騒いじゃっているおばあちゃんがいたり、とにかく病棟の廊下がすごいことになっていて、

そしてそのうるさいナースコールが、たまたまディズニーランドの小さな世界の音だったので、毎晩夜がディズニーランドでいう、エレクトリカルパレードみたいな感じでした、、悪い意味でです苦笑😭😱💦💦



また、私はとにかくいろいろな検査を受けました
どんな症状になっているか、はっきり先生が確認したいため、MRIを4回受けたり、CTも取ったり、レントゲンを取ったり、、、
生まれて初めてこんなに検査を一気にしたかもしれません



また3週間の間、週に1階ずつステロイドと言う物質を点滴してもらっていました
私が入院している時は1ヵ月ぐらい経ったら、両足や手足もも少しずつ動いて元気になるのではないかと、勝手に思っていました ですがそれは大きな間違いでした

検査を受け終わった後、私の担当の先生が
「ちょっとお話があるからいい?」と言いました
私は「はい」と言って先生と話をすることになりました

先生はこう言いました


「Rinさんの色々な体の検査などをして、対応してみたけれど、まだ退院することができなくて、ここの病院を退院したら、まずリハビリセンターに行ってもらう必要があるの。
またRinさんの体の事なんだけどね、悲しいかもしれないし、聞くのは辛いかもしれないけれど、、
頸髄の首の箇所を損傷してしまっていて、Rinさんも実際にわかっているかもしれないけれど、体全体両足、両指が動いてないこともわかるよね?

「今後のリハビリセンターで、毎日必死にリハビリを受けて大変かもしれないけれど、腕を使って車椅子に乗って生活していくことになります。」
と言われました




私は何も言えませんでした

先生に聞くのがとても辛かったけど、すごい聞きたかった言葉

足を動かすことができる

ただ半分絶望的な気持ちで聞いたのを覚えています

「先生、精一杯リハビリして、頑張ったら私の両足は動けるようになって歩く事はまたできるのですか?」


と先生にいました

先生は少し下を向いて

「Rinさん、今はまだ受け入れることができないかもしれないけれど、
両足はどんなにリハビリをしても動かす事は難しいかもしれないし、
歩くことも、少し厳しい言い方かもしれないけれど
ほぼ不可能に近いかもしれないです

だから、
これからは生活していくには車椅子を使うことになるんです。」

先生は言いました


私はその時涙がボロボロ出てきました


両足が動かない?

リハビリしても歩くことができない?

これからの私の生活は車椅子の生活?


頭がいろいろ混乱してきて涙が止まりませんでした

私はその時29歳で、1人で住んでいたアパートで、いろいろな希望ややりたいことをノートに書いて、毎日見ていたのをその時ふと思い出しました

別れた人を忘れて、前向きにパートナーを探して、お付き合いして、結婚して、赤ちゃん産んで幸せな家庭を作る、、、アメリカに横断するそういったいろいろな希望や夢が先生からの言葉を聞いていろいろガラガラと崩れ去りました


当時私の親友なども結婚して子供を産んで、育てていて、私の周りの友達なども結婚していて、子供を産んでいる友達が多かったりして、

友達の赤ちゃんを見たときに「可愛いなぁ」と思って、

「私も子供を作って、自分の子供を育てたい!☺️💕✨」といった思いが強い、そんな29歳の年でもありました
そのノートは、いろんな希望のリスト、やりたいことリストが書いてあったのですが、私が頸髄損傷といった症状になって
できることが一気に少なくなりました


私は涙が止まらく、嗚咽が出てきて、先生はティッシュをくれて


「辛いかもしれないけれど、今は自分の体のことを1番にして安静にしてね」と言って去っていきました



頸髄損傷になる前までは、自分自身の体を全然気にする事はありませんでした
何かを食べたり、歩いたり、歩いてショッピングに行ったり、スーパーに行ってお惣菜など食べるものを買ったり、、、

トイレに行きたい時はトイレに行って用をたしたり、そんな平凡なことを毎日していたのですが、
そんな平凡だと思っていたことが一気にできなくなったことに、私は絶望的な気持ちになり、とにかく悲しみでいっぱいでした

入院生活をしている時、その時は自分で食べ物を食べることが自分でできなかったので、看護助手さんなどに介助してもらって、必死に口を開けて食べていました
そういった、食べることって当たり前のことなのですが
今まで当たり前だと思っていたことが、当たり前でできていたことがいかに大切で重要だったことを気づかされました

排泄のほうもお小水やお通じが出そうといった感覚がなく、カテーテルを尿道に入れてもらって、その管につながっている袋に、お小水が流れるといった感じで、入院中もそうですし今この記事を書いてる時もそうですがそういった方法で処理しています
お通じのほうは臭いだけがお通じが出たかといった唯一の頼りなので、匂いがしている時は、看護師さんを呼んでオムツを替えてもらったりしていました
排泄の処理は実際今も変わっていません
ただ今はお通じは出す日にちを決めて、月水金と浣腸を看護師さんにしてもらってコントロールしています

排泄障害があることで、自分でトイレに行くことができないし、出る感覚もないし、女性として最初とても恥ずかしく💦😢オムツを替えてもらうこと自体何とも言えないとても辛い気持ちでした、、、

また頸髄損傷の後遺症と合併症として、自律神経を失ったので、温度感覚がわからなくなったり、
急に正常な感覚がある鎖骨の上から、首の周りや耳が熱くなったりしていたので、常にアイスノンをして冷やしてもらっていました


私が最初にいた急性病院は、20代前半の若い看護師さんがとても多かったです
なので、私より全然年下の子ですが、とても配慮してくれたり、私が髪の毛がかゆくなって辛いと言った時も、2日に1日わざわざ私をストレッチャーに乗せて、看護師さんがゴシゴシ私の髪を洗ってくれたりしてくれて、とてもありがたみを感じました😢

もちろん嫌な看護師さんもいました💦
人間は性格が違い、様々な人がいるのでしょうがないともいえますが、その嫌な看護師さんは、色々忙しくなると私が頼んでいることを途中までしか聞かずすぐに去って行ったり、私は普段よくお水を飲むのですが、頻繁に変えなきゃいけないので、他の看護師さんは持ってきてくれるのにその人からはお水をなかなかもらえなかったり、、、

最終的に仲良くしてもらった看護助手さんにその悩みをこっそり伝えたら、私の気持ちをわかってくれて、その看護師さんがあんまり来ないように色々準備などをしてくれました
今思うと本当に助かっています
看護助手さんはお母さん世代の方や私より少し上の方、または20代前半の方色々な方がいて、食べさせてもらっている間などに、お話をしたり、私の今までの生きてきた経験などを話して、それは辛かったね、辛かったですねと理解してくれたり、、
看護助手さんの話になっちゃいましたが
最終的に退院する前に、その嫌な看護師さんについて上のほうの看護師さんにお伝えして、そしたらその病棟の中で1番偉い看護師長さんが、「辛い思いをさせてすいませんでした」とわざわざ来てくれました💦


私はその急性病院に9月2日から約1ヵ月半位いたのですが、10月15日からまた違うリハビリセンター病院に行くことに決まりました

私自身早くアパートに帰って、1人でゆっくりしたいとずっと思っていましたが、アパートも親に契約解除をされて、アパートにあった私のものを全部実家に持って帰ってしまってて、私の住まいがなくなってしまって、結局実家に荷物は置いてあり、
その時点でリハビリセンター後に退院した後、どこへ私は住むべきだろうとずっと考えていました
結局今は自宅にいるのですが、、、私自身10代の頃から両親、特に母親と関係がとても悪いので、今はっきり言って、毎日緊張感と不安、またストレスで毎日がとにかく大変です😰💦💦




1ヵ月半の急性病院での入院生活は、動けなかった私にとってはとても長く感じて、
毎日することといったら、テレビをつけてもらって、毎日はっきり言ってどうでもいいワイドショーを首を少し傾けて見てみたり、とにかく1日が長かったです😢

夜はおばあさんおじいさんが騒いじゃったり、廊下がとにかくバタバタしてて、ナースコールも昼の大きさと同じ大きさで、そのナースコールの音がさっきも言いましたが小さな世界で、その音が私の脳内にぐるぐる回転されて、睡眠時間は毎日2、3時間でした
もちろんずっと寝れない時もあり、一睡もできず朝を迎え時もありました


色々辛い思いをしたなか、まだ家に帰ってはならず、またリハビリセンターに行かなきゃいけないのか、と思いとても複雑な気持ちでした

「でも私自身今のままだと、自分で何もすることができない、、だったら自分の体をを少しでも良くするためにも、今は我慢して耐えて、リハビリセンターに入院しよう!😥」と決意しました

まとめ

記事が長くなっちゃいましたね😅💦笑

病院での生活は、とにかく毎日が騒がしくてバタバタしてて、ナースコールをしてもなかなか来てくれない時もあったり、
多分私の病棟が脳神経内科だったので、そういったおばあさんおじいさん、認知症やアルツハイマーなどを抱えている方たちが多いので、特にバタバタしていたり、夜もすごい騒がしくてもともと精神的に不眠症だった私自身も特に、寝れない日々を送っていたのだと思います

次回の頸髄損傷闘病記の記事は、10月15日からのリハビリセンター病院での様子や生活、
どんなリハビリをしていたかを、自分の記録としてまた皆さんにお伝えしたと思うので、書いてみたいと思います!

生きている中で辛いことや苦しい事はたくさんあるけれど、

歩くことができない


そう言われたときの自分自身の気持ちはずっと今も覚えていて、実際自分自身がまだ受け入れてない、受け入れきれてない状態でもあります

小学校で集団いじめにあってから自殺したいと考え始めたり、中学校で両親と喧嘩してまた不登校になったり、家出をしたり、高校でもとにかくいろいろありました

でも今まで1番人生の中で辛い事は、自分で歩くことができないことです

今も介護ベッドで音声入力を利用してこの記事を書いています
なんだか涙が出てきますが、いつか自分を受け入れることができる日が来るんだ、と思い、日々生活しています


今回も読んでいただきありがとうございました🙇‍♀️✨✨
次回の頸髄損傷闘病記はリハビリセンターからの生活の内容の記事になります

皆さんもお体を大事にして毎日をお過ごし下さい🙇‍♀️🌈✨!

Rin

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